自力での引越し

私は大学での四年間を英会話とビリヤードと引越し屋でのアルバイトに自分の全てを費やした。同じ女に二度振られ英会話学校の一室でボンジョヴィの「This ain’t love song.」を聞きながら滝のように流れる涙で教室の絨毯を濡らし、プロになるわけでもないのに夜が明けるまで友だちとビリヤードに無駄な時間を費やし、そして留学するために始めた引越し屋のアルバイトも、結局彼女をゲットするために車を買うという目標にすり替わっていた。浪費という言葉を生み出したのは私ではないか(私ではない)とおもえるような見事な四年間であった。そんな四年間を終え、就職活動もしていなかった私に残されていたのは彼女はゲットできたが半年でだめになった原因となる車と四年以上に渡り私の肉体をお供えしてきた引越し屋のアルバイトである。そうして大学を卒業してからも引越し屋のバイトで月々暮らせていけたので普通に生活していたのであるが、ある夜ふと孤独感に襲われて思い立ったが吉日と思い実家に帰る引越しの準備を始めたのであった。流石に四年以上引越しの仕事に従事してきたこともあり、荷造りの技術はプロ級であると自負していたし、積込みの技術も引越し屋だけでなく引越し屋の倉庫で朝まで同僚と励んだ麻雀でも培われていた。その卓越した技術で荷造りをし、彼女をゲットするために買って半年で終わる原因となった(しつこい)ランドクルーザーの荷台、後部座席、助手席までも埋め尽くして全部積み込んだ。後ろは全く見えず、助手席も彼女の面影など見えやしない程の荷物で溢れていた。そしてそのマシンに乗り込み夜のフェリー乗り場へと向かった。行き先は北海道、私はお金に余裕があると思っていたので特等室でと頼むと受付の人が驚いて聞き返してきた。余程珍しいことなのかそれとも私のルックスがその部屋にそぐわなかったのかはわからないが、今思えばその時部屋を替えておけばよかったと思った。もったいなすぎた。でも時は既にかなり遅い。そんな不相応な部屋で一夜を過ごし苫小牧港に着いた。そこからの道のりも長く、峠の途中で重さのせいか車が登らなくなったりもしたが、それでもなんとかマイホームタウンに辿り着いた。母は驚きの目で私の荷物でパンパンの親に内緒で彼女をゲットするために買ったが半年でダメになった(トドメ)ランクルを凝視していた。母の最初の一言は「お帰り」ではなく「どうしたのこれ!?」であった。これもまた今となっては素敵な思い出である。